グランパ恋愛日記#3 歳をとってごめんなさい

自己紹介と、「グランパ恋愛日記」の説明

僕は30代の日本人です。彼氏は60代の米国人です。彼には孫がいるので、正真正銘のグランパです。ぼくたちの雰囲気を有名人で例えるなら、ミュージシャンの「岡崎体育」とアメリカ合衆国国務長官の「マイクポンペオ」がつきあってる、そんな感じです。

「国籍」「人種」「年齢」「性別」などといったカップルの要素のうち、どれか一つでもイレギュラーなら珍しいと言われます。でも僕たちは、全項目でイレギュラー。だからどんなコミュニティに属しても、いつもなんかの理由で浮きます。

そんなぼくたちについて綴ったのが「グランパ恋愛日記」です。

暮らしを記録したり、彼を観察したり、それらの感想を述べたりします。おじいちゃんとおにいさんが2人で暮らすテラスハウスみたいなものでしょうか。観察したいわけじゃないけど、2人きりだからばれちゃう。そんな、カップルのこぼれ話です。



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死ぬ

彼が30代で子供を授かった頃、僕はまだ野生の精子だった。スーツ姿の彼が歩いていた頃、全裸の僕はまだ泳いでいた。僕たちはだいぶ前から、生きている世界が違った。

そんな彼が、もうすぐ死ぬ。

こんな言い方をすると誤解を招くから言い訳したいのだけれど、具合が悪いという意味ではない。どっかのワニも僕のおばあちゃんも、時間の経過とともに、自動的に退場していった。同じことが、僕より先に、彼に起こる。それだけの話だ。少なくとも、彼の世界ではそういう設定になっている。

彼はなにかと、自分が先に死ぬ前提で話を進めたがる。「俺は歳をとっているし君より先に死ぬけれど、そんな俺と一緒にいてもいいの?」 のようなことを言う。そんな彼に対して、僕はかなり呆れている。そう語る彼の世界観は、いつにも増してズルいからだ。

「自分は歳をとっている」には、彼自身が彼にとって魅力的でない風貌になっていく、という自虐が込められている。「俺は俺を好きでなくなる」という意味だ。しかし彼と付き合っているのは僕なので、彼が彼についてどう思っているかは関係ないし、正直、どうでもいい。

また、「歳をとっている」のは彼だけではない。僕も歳をとっているので、彼が一年老いると、僕も一年老いる。彼は、これからあと20年は生存する予定だが、20年後の僕は50代だ。その時に彼は、歳をとった僕を受け入れられるだろうか。

そもそも、僕と彼では、死への取り組みがまるで違う。

彼は「次の瞬間も生きているだろう」とか「今の俺は死なない」という前提で行動している。でも僕は「今から死ぬ」つもりで行動している。別にこれは「今を生きる!」的なことではなくて、「潜在的な死因をすべて把握できないから、死なないと言い切るのがいかがわしい」程度のことだ。

僕は目が覚めた瞬間から「死にたくない」と感じるし、そうならないような選択肢を、朝から晩まで取り続けている。死の覚悟ができていないから、できるだけ後回しにしたい。高層マンションに住んでいるから、その気になればいつでも死ねるし、死はいつも目の前にあるし。

ベランダから見た景色。

僕がそうやって慎重に慎重に慎重に取り扱っている「死」を、彼はすぐ横取りして、自分だけが死ぬ世界で生きようとする。さらには、そんな世界設定に基づいて構成された、横着なプロットのドラマへの出演を、僕に強制してくる。死の順番を年齢が決める? そんな映画、見たことあるか?

そんなに先に死にたければ、今、僕が生きている目の前で、確実に死ねばいい。できないことを前提に、話を進めないでほしい。死ぬ予定が決められないのなら、もう相談しないでほしい。僕は現実問題に取り組みたい。「これから一緒に生きていく間、どうしますか」といったことだ。

きしょい

今のところ重要なのは、僕が歳をとっても彼にとって問題がないのだろうか? というところ。いちおう、彼の恋愛対象は「成人したまっとうな人間」ということが判明している。僕は成人だし人間だ。つまり「まっとう」でさえあればいい。ではどうすればいいのか。

「まっとう」に関して、彼は天才とか異才を排他する傾向がある。彼の中では、カニエウェストとかイーロンマスクは「きしょい奴」ということになっている。さいわい僕はラップをしないし、運転免許も持ってない。まっとうな人間の僕だから、50代になっても、彼にとっては問題がないだろう。

若造

でも僕のほうは、彼に対していくつか心配がある。

彼は60代以上の人間と恋愛したことがない。だから彼は、アンダー60の基準でしか恋できない。また、初孫を授かってまだ数年の彼は、グランパとしてはルーキーだ。だから今はまだ、会う人すべてに、グランパ就任のスピーチをかましてしまう。さらに、彼は話術の達人ではないので、同じ内容を同じ相手に同じ温度で、繰り返してしまうこともある。彼はその若さ故、周りをヒヤヒヤさせるのだ。

そんな彼に対し、90代の彼の父親-グレートグランパ-は、さすがに口数も少なく、落ち着いている。人の生き死にでは、もう一喜一憂しない。そんなグレートグランパに、彼はいつも大声で簡潔に呼びかける。それについて「僕たちみたいだね」と彼に言うと、彼は死んだネズミを見た時くらい嫌悪した。確かにあれは、ちょっといじわるだったかもしれない。僕だって、仲良く並走しているときに周回遅れの指摘なんかされたら、興ざめするし。

アドリア海に浮かぶネズミを彼に報告した時、旅のムードが死んだ。

若かりし頃の単純明快な僕ならば、とくに何も考えていなかったし、大事なことも余計なことも言わなかった。でも、彼に出会い、歳もとり、大事で余計な考え事が増えてしまった。

そんな彼が「俺について考えろ、そしていつも話せ」と言うから、何かあったら何か言わざるを得ない。そんなときの僕は、彼公認のまっとうな人間なだから、考え事を目一杯の真理で提供したがる。でも彼は、そういった革命的な報告をあまり望んでいない。おそらく、意味不明-きしょい-とすら感じている。彼はだいたいいつも「聞きたいこと」だけ聞きたい。

僕が歳をとるにつれ、彼にとって理解しがたい「きしょいこと」が、きっともっと増える。彼が「もっと考えてもっと話すべき人生」を僕と望むなら、なおさらだ。いちおう僕は、日々増え続ける「きしょいこと」に人知れず対症療法を施しているし、できれば時も止めたい。なにもかも乗り越える予定だけど、今のところ時空はまだ超えられずにいる。

だから現実的に考えて、僕は今のうちに彼に謝っておきたいのだ。これからも歳をとって、ごめんなさい。と

Lord Don’t Move The Mountain/Mahalia Jackson

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